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1.我が戦争体験
戦争を語るについて、まず、わずかばかりの私の戦争体験を振り返るところから始めたいと思います。
もともと横浜生まれですが小学校1年生の時に戦争が激しくなり空襲を避けるための疎開を兼ねて母の実家のある山梨県に移り住みました。ただし同時期、父は三重県に転勤となり家族だけの疎開となりました。最初に入学した横浜の小学校では(当時は国民学校と
いっていました)幼いながら戦意高揚の映画を見せられたり上級生が校庭で戦争ごっこらしきことをやっているのを見かけたりしたほか疎開した山梨県の小学校では教育勅語を中心とする戦前の教育を受ける経験をすると共に戦争に赴いている出征兵士の農家の農作業の手伝いに勉強そっちのけで何回も、かり出された思い出があります。
まだ戦時中でしたが、その後しばらくして、父を追って家族は三重県に移り住みました。そこでは町内で行われる警防団が主催する住民参加の防空演習を見たり、米軍の爆撃機の襲来を告げる警戒警報、空襲警報による学校からの緊急帰宅などを経験したほか、遠く名古屋市の夜空が爆撃の火災により赤く染まっているのを2階から見ることとなりました。さらに今でも覚えているのは夜間の空襲に備えた灯火管制で電燈に覆いをかけ暗くした部屋の中でアメリカの爆撃機B29の低く、うめくような爆音におびえて過ごしたことです。
やがて当時、住んでいた近くには海軍の製油所があったことから、ここも空襲の危険があるとのことで父を残して家族だけで再度、山梨県に引っ越しましたが、そこで小学2年生の時の8月15日に終戦の日を迎えました。当日、正午、大勢の大人達がラジオの前に集まって終戦の玉音放送を聞いているのを今でも鮮明に覚えていますが内容はラジオの雑音が多かったこともあり理解できず全然判りませんでした。
終戦となり家族は再び父の転勤先である三重県に移り住むことになりましたが、そこで、びっくりしたのは引っ越す前まで住んでいた一つ隣の町まで焼け野原になっていたことと近隣の大きな町が同様に、ことごとく戦災に遭って遙か遠くまで見通せるほどの焼け野原になっていたことです。また三重県に移ってからも家庭の事情で何回か引っ越しましたが、(転校4回)その、通った一つの学校では校舎が戦災で消失したため、しばらく近くの、お寺の本堂を教室代わりにして授業を受けたこともありました。
また引っ越した先が国道一号線沿いであった時には進駐軍(当時は米軍を、そう呼びました)が最初の上陸だったためなのか警戒しながら幌で覆ったジープを先頭に軍用車両の隊列が静々と国道を低速で進むのを目撃したのを良く覚えています。その後、国道一号線にはアメリカの軍用車両がひっきりなしに走ることとなりましたが行き交う車の上から米兵が面白半分に投げる当時珍しかったチューインガムやチョコレートを先を争って拾った記憶があり、そのような状況からが私の戦後の始まりとなりました。
終戦直後は食糧不足から食料配給の主流はサツマイモとなり配給日には近くの広場にサツマイモが山積みにされていた記憶があり学校への弁当も当然ながら同じサツマイモとなりました。さらに当時は貴重だった米などの食料を求めて近隣の農家に郊外電車に乗って父親と買い出しに行った記憶があります。
とにかく今から考えると当時の食糧事情は現在の飽食の時代においては想像も出来ないものであり現在に生きる若い人には理解出来ないと思われるほどの状況にありました。
そうこうしているうちに私は戦後の食糧事情による栄養不足からか小学校4年生の時に肋膜炎を発症
し当時は入院すると言う環境にはなく寝たきりの自宅療養となり回復に半年以上を要しました。その間、学校には行けず出席日数不足から進級出来ないこととなり小学校4年生を2度経験することとなりました。かくして当時は小学校低学年であったこともあり詳細は判りませんでしたが、当時の国民が受けた戦前戦後を通しての戦争の影響を、小さいながら、わずかに経験することになり、なにも判らない子供にとっても戦争被害者の一人になるのかも知れません。
2.趣旨と目的
終戦直前、直後に、そのような経験をした私ですが、その後の私の過ごした時代は日本の急速な復興に伴い到来した神武景気をはじめとする好景気時代に遭遇し、その中で企業戦士として仕事に追われる毎日を過ごすこととなり、その間、戦争について、あらためて考える余裕も機会もないままに、いつのまにか歳を重ねて現役を離れることとなりました。
現役を離れてからは時間の経過と共に外部と関わりが少なくなり過去の人脈は次々と切れて行くにつれて他人とのつきあいも減少し世間の動きを知る必要性も身近に感ずることもあまりなくなっていきました。しかしながら近年のメディア手段の発達と、それに伴う情報のグローバル化等により世界各地で起こっている数多くの争いや戦争のニュースが黙っていても、あたかも隣町で起こっているような近さと速さでも毎日伝わってくるようになり、それらを聞く度に、わずかながらの苦い戦争体験を思い出し無関心ではいられなくなりました。
先の大戦では日本を始め、これに関わった多くの国々では多くの生命、財産が失われ多くの人が苦しみましたが、このことにより世界は、その反省から同じ悲劇を繰り返さないための多くのことを学んだと思われます。しかしながら最近の世界の情勢を見ていると世界各地での争いが止まず世界の、どこかで常に戦争が行われ、今でも先の大戦同様に多く人が、その犠牲になって苦しんでいるが実情のようです。この現実を見ていると世界は、いまだに先の大戦から何の反省もなく何も学んではいないではとさえ思われます。
どうして、このようなことになっているのかを考えるに、これらを招いている要因の一つには先の大戦終了後70数年が過ぎて戦争体験者の多くは高齢化し生存者も減少しつつあることから今や時代は戦争を経験せず戦争を知らない世代が大半を占めるようになってきたことがあげられるのではないかと思われます。
そのことにより戦争に関する経験や事実が戦争体験者から、そのような世代に直接伝えられる機会が少なくなり、その多くは必然的に戦争体験者の書いたものを読むか、過去の戦争に関する映像を見るか等の間接的な伝承に限られることになると思われます。
しかし、そのような間接的な伝承からは戦争体験者が自ら実際に体験した事実の、すべてを伝えられることは難しいと考えられると共に被伝承側の受け取り方にも大きく左右されることから、その伝えられる内容は、ますます戦争の事実から遠くなる可能性があると考えられます。
その結果、戦争を避けるために必要な本当の事が正確に伝わらず個々の利害が優先し戦争の事実が反省の材料にもならず、そこから、何ら学ぶことなく歴史が刻まれて今日(こんにち)に至り、いまだに世界から戦争はなくなっていない状態が続いているとしか思えません。
これらの事実は、いまだに世界から戦争がなくなっていないことが第1次大戦、第2次大戦の経験が忘れられ風化して行っていることを物語っているような気がしています。
更に、また、この戦争を知らない世代が、さらに、もっと戦争を知らない次の世代に、そのまま伝承していくとなると、ますます戦争の悲劇が忘れられて行く可能性が高くなると思われます。
特に、伝承の段階で、その受け取り方がイデオロギー、民族、宗教、政治、経済等の違いに影響されると先入観や固定観念等に縛られ議論は一定の範囲から出られなくなり反省することも学ぶことも限られる事から、得られる結論も、それぞれの立場に都合の良いものとなり、その違いが、また新たな争いのもととなり戦争に至るという結果を招くことになりかねません。
このように、いまだに戦争がなくならないのは現在の世界が先の大戦の教訓から何も学ばず何の反省の上に立っていない結果に終わっているとしか思えませんが、その象徴が日本に落とされた原爆の被害の大きさが広く世界に認識されているにも、かかわらず現在も多く国々が多くの原爆を製造し保有し続けている事かと思われます。また更に政治体制の違いが克服できず世界の多くの国の間では自国の利益を優先するための軍拡競争が始まっており世界各地での戦争の拡大が予測され、覇権主義の台頭も相まって、このままでは第3次大戦争も絵空事ではなくなるのでとさえ思われます。
このようなことから、現在の、このような状況にある世界から争いをなくし戦争をなくして社会の平和を維持して行くには、この先、何を考え何をしなければならないか、我々を含めて人類は最も問われなければならない時代に来ていると思われます。
そのためには先の大戦の反省と教訓から戦争が何故なくならないかを含め先入観や固定観念にとらわれることなく、あらゆる角度から戦争を正確に、とらえる事で今までにない発想と知恵を出して考えて行くことが求められていると思われます。
幕末のころ薩摩藩からは明治維新の礎を作った人物が多く輩出しましたが、その薩摩には「一方聞いて沙汰するな」と言う言葉が残されていると聞いています。物事を一面からのみ見ていると話が結論ありきになることが多くなり、議論は、その枠から出られず空回りして本当のことは判らずじまいとなり良い知恵に辿り着くのが難しくなることが予測されます。その結果、同じ事が繰り返され同じ結果を招くことなりがちになるのではないかと思われます。
これまで世の中には戦争に関する論文や書籍が数多く出されていますが、それらは内容が専門的で専門用語も多く多少の予備知識がないと理解しにくい部分があったりして多分に近寄りがたい面があったと私自身が感じておりました。そこで、ここでは、戦争と人間の関わりを含めて出来るだけ平易な文章で誰にも理解し易い形で戦争についてまとめることにして、わずかばかりの戦争体験者として、これに関する私の言葉を残し次世代の人々の参考にしてもらえればと考えました。そして、これが多くの人に戦争を多面的に捉え、見かけだけの議論に終わらない身近なものとして考えてもらうキッカケにしてもらえれば幸いであると思っています。
しかし私は、この道の専門家ではないことから内容に思い違いや事実と異なる部分があるかも知れませんので、これは私の問題提議の一部と考えて、お許しを頂ければ幸いです。
また、特に戦争を経験していない、また戦争を知らない、これからの時代を築く若い人たちには過去を正確に学ぶことで過去にとらわれない新しい発想と他人に左右されない自らの視点に立って戦争と平和について考え、議論を単なる議論に終わらせず、それを何らかの行動に結びつくように努めてもらいたいと思っています。
3.人類の歴史は戦争の歴史でもある
紀元前何千年の昔から地球上の至る所で多くの戦争が繰り返えされてきました。そして、全世界の多くの人々は、その悲惨さと、むなしさを歴史として学んできたはずです。しかしながら、戦争は、いまだに世界のどこかで行われ、止むことはなく、多くの人命が失われ、数えきれないほどの人間の悲劇が繰り返されています。日本でも古代から多くの戦争が繰り返され、日本の歴史を学ぶことは日本の戦争の歴史を学ぶことにもなりかねず日本では第2次大戦で約300万人もの同胞の命が失われました。
このような事実を知るにつけ誰でも一度は「戦争はなぜなくならないのか」と思ったことがあると思います。そして戦争について語るとき多くの人は、どちらかというと、戦争のもたらす悲惨さと、むなしさの事実を中心に語り、戦争はやってはならない、戦争は悪だ、戦争は繰り返してはならない、平和は守らなければならないと言う戦争反対論の結論に達するようです。しかし戦争の悲惨さと、むなしさの事実のみを議論し平和を叫び、祈るだけで戦争がなくなるのであれば、もうとっくに地球上から戦争はなくなっているのではと思います。
実際に戦争をなくすためには、その戦争の悲惨さと、むなしさという戦争の結末である結果の事実だけでなく、その事実につながる要因まで遡って議論をし、その要因を取り除く事で、どうしたら戦争をなくすことが出来るのか、また、なくすために何をすれば良いかの具体的な行動を探る必要があると思われますが現状は残念ながら多くの場合、そこまで議論が進まないで終わってしまっている事が多いような気がしています。
それは戦争の悲惨さと、むなしさは目の前の事実として誰にでも容易に掴むができ単純化されやすく共通の認識がとれやすい具体的なものであるのに対して、戦争が、なぜ起きるかの要因は多岐に亘り複雑で具体的に確定することが難しい上に立場により見方が異なる事もあり対応の範囲が広くなり要因にまでたどり着くことが容易でなく戦争をなくすための行動が、簡単には、とりにくいと言うことからきているのではないかと思います。その事は今に至るまで戦争がなくなっていないということから明らかであり戦争をなくすことは、そう簡単でないことを物語っているような気がします。
4.「戦争には結果だけでなく要因がある」
4.1 第2次大戦と人類の悲劇
第2次世界大戦後の東西の冷戦が解消するにつれて、それまで大国の干渉を受け植民地の状態にあった多く国々が新しい独立国家として台頭してきました。その結果、それぞれの国々の持つ歴史と国民性の違いから、それぞれが持つ、ものの見方考え方の相違が明確となり、それまでの抑えられていた独立意識、民族意識、国家意識等が強まると共に主に宗教、イデオロギー、政治体制等の違いから世界の到るところで、”もめ事”が増えることとなり、それに伴い各地で争いや戦争が続出し、未だに続いているところが多いのが現状のようです。
また、争いや戦争は、交通、情報手段の発達により、今や、黙っていても、どこにいても、まるで隣町で起こっているような感覚で我々の耳に聞こえて来る身近なものになり我々も無関心ではいられなくなっているのが実情です。その上、IT技術の進歩によるインターネット等を含む情報伝達技術の発達に伴い情報量が増え、その内容の複雑性と多様性が増し、考慮すべき判断材料が増えて人々の判断上の選択の幅が広がってきました。そのため絞り込みが難しくなったことで当事者同士の話し合いも落としどころが見つからず解決の糸口さえつかめないものが増えてきたようです。
そして軍事技術の進歩により強力になった武器が国境を超えて安価に誰でも入手が容易となり、それらはテロ組織などを含む民族間、国家間の、”もめ事”の解消手段としての争いに使われ、結果として局部的にも悲惨な争いや戦争が世界各地で未だに絶えない状態になっています。
その上、現在では国際ルールを軽視し軍備を背景にした覇権主義的、一党独裁的な国の勢力拡大の台頭も止まらず、お互いの不信感と疑心暗鬼から、それぞれが原子爆弾等の大量破壊兵器を含む軍備拡張に走り、それによる世界の軍事的緊張は第2次世界大戦直前の状況に近づきつつあるとさえ思われることから、このまま行くと第3次世界大戦の勃発も予測され、また同様な悲劇がくりかえされないとも限りらない事態になっています。
第2次大戦では全世界で2000万人とも3000万人も言われる戦争犠牲者が出たとされており、その反省から大戦終了ともに、このような戦争の悲劇を、なくすことは大戦終了後の人類の悲願となりました。そして、国際連盟や国際連合の創設や各国間の条約等が生まれ戦争を避ける動きがあり全世界の至るところで、ことある毎に戦争の悲惨さが語られ戦争は悪であり、戦争は、やってはならないと言う願いから世界各地で平和への努力がなされて来ましたが戦争の悲劇は続いており、いまだに、なくならず飽きもせず繰り返されています。
4.2 争いの結果の原因と要因
争いとは一般的に利害の対立するもの同士の意見の相違から始まることが多いと思われますが、その相違が話し合いで埋まらない場合には最終的にジャンケンとかスポーツの勝ち負けというような平和的手段が取られることが理想的と思われます。しかし残念ながら、このような場合、さしあたり人間に、与えられ残された究極の解決手段として暴力しか残されておらず、結果的に、これが個人で言えば喧嘩となり国家間であれば戦争になると言うことになります。
そもそも、すべての争いには、そこに到るまでの過程と原因があり、更に、その先には、それを招いた要因があるはずです。従って争いを語るときには喧嘩や戦争の最終結末だけでなく、その、始まりの具体的な要因にまでさかのぼらなければ、それらをなくす知恵につながらず、反省材料ともならないことから、以後、各所で同じ悲劇を繰り返すことになりかねません。
諺に「火のないところに煙は立たない」と言うのがありますが火元がなければ煙が出る可能性はないのと同様、争いがなければ喧嘩や戦争が起こる可能性もないと考えられることから、単に喧嘩や戦争の結果として何が残ったということだけを議論するのではなく、その火元と思われる争いの要因にまで遡って議論して、それを除去しない限り、それらは、なくならいと言うことになります。
つまり、戦争について言えば、その結末の悲惨さと、むなしさを語ることは、もちろん必要なことでありますが、それだけでなく戦争の火元となった争いの要因にまで遡り、それを取り除くことをしておかなければ、同じようなことが、また、どこかで繰り返され戦争はなくならないと言うことになります。
また更に世間では誰が戦争を起こしたのかという犯人探し的な議論がありますが、しかし、これも犯人が犯罪を犯すまでには、それなりの理由があり、結末だけを云々するだけでなく、その戦争に至るまでの過程を辿り、その要因を探しだし、それを除去しなければ、たとえ、その犯人を排除したところで、どこか違うところで、また同じような犯人が現れ同じような理由で同じような戦争が生まれないとも限らないと考えられます。かのヒットラーは自殺直前に「自分の時代は終わったが、また何年か後に同じような人物が出てくるであろう」という趣旨の言葉を残したと伝えられています。
一般的に国家間の戦争の定義を考えて見るに、それは一言で言えば双方の外交的問題解決の最終手段として使われる暴力沙汰の結果であり、その目的は一方の主張を相手に飲ませることが目的であることから双方に、その戦争を正当化する理由が存在します。その結果100の戦争には100の正義があることとなり最終的には「勝てば官軍」の例え通り事の善悪は抜きにして勝った方の正義が優先し、また別の正義との争いが起こるという悪循環を招き戦争の種は尽きず戦争は永遠になくならないのと言うこととなります。
これまで述べてきた一連の事実から、戦争をなくすと言うことを考える時に忘れてはならないのは、戦争によって生じた悲劇の悲惨さと、むなしさは戦争そのものが、もたらした結末の具体的な事実であり結果ではありますが、その先には、その戦争を引き起こした根本的な要因があり、その結果だけを云々していても、その要因を取り除くことをしなければ戦争をなくすことは出来ないと考えられます。
従って戦争を語るとき戦争の原因と結果だけでなく、その要因についても溯って考える必要があると考えられる事から少し乱暴ですが、これを単純に判り易くとらえると「戦争には結果だけでなく要因がある」と考えるべきではないでしょうか。
5.争いの存在について
戦争の多くは争いから始まりますが、争いは国家間だけに存在するものではありません。誰でも、個人的に、これまで一度は意見の相違から、”もめ事”から始まる何らかの争い
に巻き込まれて話し合ったり、言い争いをしたり、喧嘩に至らないまでも、それに等しい思いをした経験を持っているのではないかと思いますが、争いは大なり小なり私たちの身の回りにも数多く存在しています。
それを裏付ける意味から、ここでは、あらためて世に使われている争いに関わる言葉と表現を集めて見ました。これを見ると、それらの多くは、あらゆる場面で日常的に使われ、争い存在が特別なことではなく、ごく当たり前のこととして考えられていることが伺えます。さらに記録、映画、ドラマや小説等の文学作品の中でも、数多く普通に多く使われ争いの存在は、いかに一般的なものであるかを示しているようです。
5.1 争いと、その状態の分類
T.争いの分類
1)特定目的達成のための争い
a) 主に組織が対象の争い
水争い、トップ争い、跡目争い、首位争い、
b) 主に個人が対象の争い
昇格争い、指名争い、後継者争い、代表争い、
c) 親族間の争い
テレビのチャンネル争い、親権争い、相続争い、遺産争い
d) ルールのある争い
賞金王争い、新人王争い、優勝争い
2)勢力、権益拡大のための争い
a) 主に組織が対象の争い
縄張り争い、勢力争い、派閥争い、覇権争い、権力争い、
領土争い、権益争い、領有権争い、所管争い、支配権争い
b) 主に個人が対象の争い
主導権争い、地位を巡る争い ポスト争い、権力争い、
U.争いの状態の分類
血みどろの争い、泥沼の争い、熾烈な争い、不毛な争い、血を血で洗う争い、血肉の争い、激しい争い、熾烈な争い、血みどろの争い、すさまじい争い、つまらない争い 無益な争い 無意味な争い 実りのない争い 泥沼の争い 凄まじい争い、骨肉の争い口争い。
また、このほかに争いと言う表現を使わないまでも同じ内容を含む表現も数知れなくあり、その中でも主なものを挙げて見ると次のようなものがあります。
戦い、喧嘩、紛争、闘争、共闘、抗争、激戦、衝突、激突、激闘、熱戦、死闘、奪い合い、取り合い、争乱、騒乱、勝負、争奪、対抗、論争、摩擦、争議、言い合い、制圧、鎮圧、口論、怒り、悲しみ、憎しみ、妬み、恐怖、願望、欲望、呪い、平和のための戦い、罵倒、誹謗、中傷。
5.2 この世に争いの種は尽きない
これらは、すべて何らかの争いから生まれた言葉であり表現であると考えられますが、これだけ多いと言うことは世の中に、いかに争いが多いかを物語っており、また、これにより私たちの身の回りには争いの種が、いかに尽きないとか言うことを示していると考えられます。
江戸の大泥棒とされている石川五右衛門は死の間際に、「石川や 浜の真砂は尽くるとも 世に盗人の種は尽きせじ」という辞世の句を残したと伝えられていますが争いも同様に、この世に尽きないと言うことになるのでしょうか。
なぜ、これだけ争いに関する表現や言葉が多いのかと考えると争いの多くは意見の異なる二つ以上の存在の間に起こる、”もめ事”から始まる訳ですが、”もめ事”の中には小は親子喧嘩、夫婦喧嘩、兄弟喧嘩から大は社会的組織、国家間に至る間に幅広く起こり、また、その内容も複雑多岐に亘り多種多様な争いの形態が発生しているからではないかと推察されます。
また、”もめ事”には、お互いに譲れない理由が存在するのが常であり、多くの場合は妥協を求めて話し合いが始まります。しかし、お互いに落としどころが見つからず妥協が出来ない場合は次の段階として話し合いが言い合いとなり果ては争いに発展し、お互いに相手を自分の意に沿わさざるを得ない段階に至ると最後の手段としての暴力に訴えると言う暴力沙汰となり場合によっては犯罪につながる場合があります。
一般の社会での暴力沙汰は喧嘩と言う形で済みますが、これが、もし意見の異なる二つ以上の国家間で、”もめ事”が起り、お互いに譲れない場合には、同じように話し合いが争いとなり、争いが暴力沙汰に至り、最終的には、それは個人にとどまらない、多くの国民を巻き込んでの国家間の戦争という言う形に発展するのが通例となります。
そして、個人を国家に置き換えてみると国家間の争いにも、先の「5.1 争いと、その状態の分類」で挙げた争いに関する言葉や表現が、一部、形は変わりこそすれ、ほぼ同じように多く使われることになることから国家間の争いも私たちの身の回りにあるのに劣らないほど多く存在すると言うことになります。
これらのことから個人間にしろ、国家間にしろ、当事者同士に起こる喧嘩や戦争は、すべからず、何らかの争いから起こると考えると、それらをなくそうとするならば、いずれにしても、その争いの要因をなくすことに尽きるという結論に達すると思われます。
従って、これらの事から、「戦争は、なぜなくならない」とは「争いは、なぜなくならない」となり、争いには必ず何らかに要因が存在していることから、ここで取り上げた「戦争には結果だけでなく要因がある」と言うことになるのではないかと考えます。
つまり戦争をなくすためには、その要因を探り、争いの本質を議論し、その要因を取り除くことをしなければ、戦争を単に結果からのみからとらえ、戦争の結末である悲惨さだけを議論していても、戦争は繰り返され、なくならないのではと考えられます。
また争いが戦争という人間の悲劇を招く最大の要因であるにも関わらず歴史小説、戦争小説、戦争映画の中で争いに関わる言葉と表現が無造作に多く使われ、もてはやされ戦いが賛美されていることには「戦争はなぜなくならいか」を論じる観点から見ると大いなる矛盾を感ぜざるを得ないところがあります。特に気になるのは多くのテレビ番組や映画の場面の中で人が何らかの武器により切られ、撃たれ死んでいくことが無造作に描かれていることです。これが、別の世界であるが如く、ごく単純に一般に受け入れられていることこそ、その中に「戦争はなぜなくならいか」の答えが、ありそうな気がしてなりません。
6.争いの起源
6.1 争いのない時代の存在
長い日本の歴史の中で、かって争いが、ほとんど、なかった言われる縄文と呼ばれる時代がありました。これは山口大学と岡山大学の研究グループが約1万年に及ぶ縄文時代の人骨を全国242カ所から2582点収集し調査したところ、これにより傷を受けた痕跡があるのは23点で、この時代の暴力による死亡率は約1.8%となり外国を含めて各時代の暴力死亡率と比べると極めて低いと言う調査結果を明らかしましたが、これは、このことを裏付けていると言われています。
そして縄文時代は今から、およそ1万5000年前に始まり、その後1万年を越える長きに
亘って崩壊することなく続いたことから世界の古代文明と比べても、これほどの例は、ほとんど、ないとされ、その後に続く弥生時代と言われる時代は紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までであったと言われていることから縄文時代が、いかに長く続いた時代であったと言うことのほかに、そこに築かれた縄文文化の顕著さから世界でも例が少ないということで外国の研究者の研究対象にもなっているようです。
そこで、争いのない縄文時代が、なぜ1万年近くも争いもなく続いたのかを知りたくなると同時に、そこには「なぜ戦争はなくならないか」を考えるヒントがあるのではないかと考え、争いの起源を探す意味でも縄文時代に何が起こっていたかを考察することとしました。
6.2 縄文時代とは、どんな時代であったのか
地球の氷河期が終わり温暖化で始まる旧石器時代と呼ばれる時代では、それまで、はびこっていたマンモス等の大型動物が自然環境の変化から途絶え食用の対象となる小型の動物(しか、いのしし、うさぎ等)が増えると共に寒冷気候から温暖気候に変わったことにより、それまで栄えた針葉樹に変わって食料となる木の実(クリ、クルミ等)等を提供し得る落葉広葉樹林等が増えて行きました。
それにより旧石器時代に大陸から渡って来たと思われる当時の縄文人は狩猟採集を基本とした安定した生活をしていたと考えられています。当時の遺跡から見つかった食べ物の多くは木の実や魚、そして動物などで、このことからも縄文人は農耕に頼らず狩猟採集を生活の基盤としていたことが推察されます。
その後、土器が発明され、その土器の表面には縄目の文様があったことにより、この時代は歴史的に、縄文時代と呼ばれるようになりました。しかし,縄文時代創世記の人々は身近に森を利用する生活から一定の場所に長く住みつくようになり、そのための「たて穴住居」が作られ、その中に、かまど、となる穴を掘り土器による煮炊きをする定住化の生活をするようになりました。
そして縄文時代も中期になると「たて穴住居」が集まることで、集落ができ、食べカスを捨てる貝塚や人を埋葬する、お墓などの共同利用する場所の必要からムラ的な場所も出来て、現在に残る縄文遺跡となる集落が増えていきました。このように、この時代の人々は、定住化は進みましたが、もっぱら狩猟採集による自然の恵みを生かした生活が基本だったようです。
ここまでを見ると、この時代の人々は単なる衣食住の確保に留まる貧しい狩猟採集民と思われがちですが縄文時代中期を代表する青森県にある三内丸山遺跡から発掘された数々の遺品や遺構は、これらの従来のイメージを覆すものとなりました。その主なものを紹介すると次のようになります。
1)道具
狩猟に必要な弓矢には黒曜石などを利用し細工したものが使われたほか木の実をすりつぶすための“すり石”や“たたき石”、肉をきるナイフ、木を倒す“石斧”などの道具を作っていた。
2)食べ物
温暖化の影響で豊かに育った落葉広葉樹林から収穫したクリやクルミなどを食料としていたが栽培には到らないまでも間伐や収穫の管理などをやっていたと言う研究報告がある。また動物の骨や角で作った“つり針”や“針”、木の容器、船のオールなどのほか“うるし”を塗って丈夫にした道具もあった。
3)装飾品
出土品の中には直接生活には必要のない装飾品もあり、その中にはヒスイの首飾り、貝殻で作ったアクセサリー、漆塗りの櫛などがあり当時の人々は狩猟採集に留まらず身だしなみにも気を使っていたことが推察される。
4)土偶
この時代の多くの遺跡からは、目的はいまだに定かではないが多くの土偶が出土している。その顔や形から呪術的な道具として使われ人々の心のよりどころになっていたのでは思われるが、中にはかなり芸術的感覚で作られたものではないかといものもあり当時に人々の文化が偲ばれる。
5)装飾土器
土器は本来煮炊きに使われるものだが縄文時代後期になると火焔土器と言われる、かなり装飾を意図したような土器も現れ当時の人々の美的感覚も偲ばれている。
6)大規模構造物
三内丸山遺跡では直径1mに及ぶ太さのクリ材の6本の柱跡の出土があり、その柱穴の間隔、幅、深さが、それぞれ4.2m、2m、2mであることから推察して、その高さが15mほどの物見櫓ではなかったと推察されている。また三内丸山遺跡には長さ約32メートル、幅約10メートルもある大型住居跡が集落の中央付近から多く見つかっており、これらは集会所、共同作業所、共同住宅などに使われていたのではないかと言われている。これらには、今から考えても、それ相応の技術が必要と思われることから当時の人々の専門的な建築技術は、かなり高かったのではと言われている。
7)外部との関係
先に述べたように弓矢に黒曜石が、また耳飾りなどの装飾品にヒスイが使われたりしていたが、これらの材料は三内丸山遺跡付近にはなく遠く長野や新潟から運ばれてきたものと考えられることから当時の人々は丸木船を操って外部とも広く接触があったものと思われます。
これらの事実から当時の縄文時代の人々の暮らしは当時としては高い文化にあったと言われています。
そして、これらの文化は豊富な自然の恵みを受け、誰もが、いつでも、どこからでも、必要とするだけの食料が得られると言う自然を活かした狩猟採集を基本とした自給自足の社会から生まれたと推察されますが、そこには特に身分の差が生ずる理由も、お互いに争う理由も存在しない平等社会が生まれ、また集会所等の存在から、お互いに助け合う文化もあったと推察されています。
このようなことから縄文時代は1万年近くも争いの少ない豊かな時代が続いた時代となり、その持続性についても世界に例を見ないと言うことで外国の研究者からも注目される時代ともなりました。
しかしながら、その後、大陸から稲の水耕栽培技術が伝わったことにより、この縄文時代も、やがて終わりを迎えることとなります。
6.3 争いは弥生時代から始まった
稲の水耕栽培、つまり稲作を中心とする農耕は中国から朝鮮半島を経由して当時、少しづつ国内にも伝えられていたようですが縄文時代の人々は争いのない豊かな生活に慣れていたせいか稲作を取り入れず狩猟採集を基本とした生活を、ずっと1万年近くも続けていたと言うことになります。
同じ頃、西アジアで栄えていたのがメソポタミア文明ですが、そのなかの大規模な都市での生活を支えていたのは安定した食料が得られる農耕であり古代エジプト文明 インダス文明そして中国文明も農耕を基本とした生活であったとのことで世界の四大文明が稲作を中心とした農耕であったとのことから、縄文時代の特異性が推し量られます。
しかしながら縄文時代も後期になると稲作は朝鮮半島に近い東日本から日本全国(北海道、沖縄南西諸島を除く)に徐々に広がり本格化して行くと共に稲作の伝来と共にもたらされたであろう農耕技術の進歩により狩猟採集中心の縄文から稲作中心とする農耕の弥生へと時代が移っていくこととなります。
その弥生時代の文化を特徴付ける主なものを挙げると次のようなものがあります。
1.稲作の技術が向上し食料の獲得は採集段階から生産段階に入り自給自足に留まらない必要以上の収穫が出来るようになり余剰品を蓄積する文化が広がった。
2.稲作と共に渡来した青銅、鉄などの利用は農耕具の改良による稲作技術の更なる向上と発達をもたらし、また生活用具の改良も 進み生活の向上をもたらした。
3.高温で焼かれ肉厚で熱の回りやすい丈夫な縄文時代と異なる赤褐色の土器が発明されたが、これにより米食が基本とした食生活が進み、 貯蔵のための備蓄用の甕としても使われた。これにより、この土器は縄文土器との違いにより弥生土器と呼ばれるようになった。
(弥生とは弥生土器が最初に発掘された東京都文京区の弥生町から付けられたものである)
このような時代背景のもとで普及した稲作の生産性は格段と向上し食べきれないほどの食料が得られるようになりました。しかしながら、その収穫量は栽培技術の差に加え天候と土地の稲作適合性に左右され地域的に収穫量と、その備蓄量に差が出てくるとことから冨の蓄積が可能となり、それは地域的に足りるところと足らざるところを生みだすこととなりました。それにより、やがて地域同志の収穫物と土地の奪い合いが始まることとなり地域間の争いが始まったとされています。
また余剰品の蓄積は富の蓄積につながり地域の勢力拡大につながることから争いは更にエスカレートしていったものと思われます。
ここに自然とのつきあいの中で狩猟採集により必要な食料を必要なだけ収穫することで争いのない生活を基本としてきた縄文時代は終わりを告げることとなりましたが、その要因は一言で言えば大陸からの稲作の伝来であり、それに伴う富の蓄積から始まる地域差の発生と、その奪い合いの発生にあったと考えられます。
その後、地域的に利害が一致した、いくつかの集落がまとまり次第に大きくなり、そこに指導者が現れ権力者となり、それを中心として「クニ」と言われるいくつかの勢力が出来て、その間で争いが繰り返されるという時代に突入しることとになりましが、このことにより国内の争いは弥生時代から始まったといわれることになりました。
弥生時代も中期になると「クニ」同士の争いがエスカレートするにつれて敵の攻撃に備えて柵や濠をめぐらした環濠集落や敵の攻め難い高所に作られた高地性集落と呼ばれる場所が出来てくることとなりますが、その中で有名なのは環濠集落跡としては佐賀県に残る「吉野ヶ里遺跡」、高地性集落としては香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡と言われています。
まだ日本に文字がなかった、この時代の様子は、当時の中国で書かれた「後漢書」東夷伝から知ることができます。それによると、「倭の奴国の王」(中国側から勝手に呼ばれていた国名)の使者が当時の朝鮮にあった皇帝の出先に貢物を持ってきましたが、その見返りに、その時の皇帝が「漢奴国王」の金印を与えたということ、また「漢書地理書」には当時日本には100の国があったことが紹介されていることから当時多くの勢力が存在していたことが推察されます。
さらに弥生時代後期になると「魏志倭人伝」には30ばかりの国が集まった「耶馬台国」が成立し「卑弥呼」という女王がおり、「卑弥呼」の死に伴い大乱が起こったが「壱与」という女王が再び治めたことが紹介されています。
このように弥生時代には、稲作がキッカケとなり、いくつかの国が出来て、その間で争っていたことが中国の歴史書からも裏付けられています。
その後、弥生時代後期になると権力者が各地に発生し多くの「クニ」と呼ばれる勢力間の争いが始まりましたが、これは地方に権力者の墳丘墓が増えていっていることから裏付けられているとされています。やがて、これらの勢力は中央集権化されていき、前方後円墳に代表される大規模な墓を残すような権力者が次々と発生し、国の統一につながる古墳時代へと進むこととなりました。以後、これら権力者の権力争いを中心として戦争の歴史が始まり戦争は国内では徳川家康が天下を治めるまで続き、対外的には、その延長で第2次大戦に及ぶこととなりました。
一方、この時代の外国の様子に目を転じて見れば、主なものは次の表のようになっていますが中国、ヨーロッパではすでに日本の縄文時代と同時期に多くの戦争が行われていたようで世界的に見ると人間の歴史が戦争の歴史の感があり日本でも遅ればせながら日本人の歴史としての戦争は弥生時代から始まったと言っても過言ではないと思われます。
7.争いの要因
7.1 争いと欲求
稲作の伝来から発生した地域格差、身分格差および富の蓄積の格差は、持てるものと待たざるものを生み出すこととなりますが、そこには当然ながら、食料の確保を中心として、いろいろな”もめ事”が生まれ、争いになったことは充分考えられます。しかし、争いのもとが単に食料の奪い合いに、とどまっているならば勝者と敗者は出るとしても食料の帰属でケリがつき争いは限定的となると考えられます。
本来、食料の奪い合いは人間が生きるために必要とされる最低の条件を満たすための行動であり、人間に限らない動物の持つ本能的な欲求と考えられます。しかし、時代の経過と共に人口の増加に加え人々の関係が広がり経験の積み重ねによる思考能力が高まるにつれて“もめ事”は、必ずしも最低限生きるために必要な本能に、とどまらない本能以外の欲求(以後「本能外欲求」と略称します)に起因する“もめ事”も増えて行くこととなりました。
本能外欲求の高まりにつれて、争いの要因は食料の奪い合いにとどまらない複雑化なものとなり、その規模もエスカレートしていった結果、争いの範囲が広がり弥生時代は前述した経緯を辿り本格的な争いの時代になって行ったのではと推察されます。これらのことにより争いと本能外欲求との間には深い関係が存在すると考えざるを得ないことになります。
7.2 本能以外の欲求
古(いにしえ)より、この世の生きとし生けるもの、すべては人間を含めて子孫を残し次の世代に引き継いで行くために生まれ、そして、その一生を終わるとされています。そして、その目的を達成するために人間を始めとする生き物には生きていくための最低限必要な術(すべ)としての欲求(食欲・睡眠欲・生殖欲等)を本能として与えられて生まれてきていると考えられます。
これら生きる術(すべ)の欲求は、すべての動物にとって必要で共通なものではありますが、しかしながら人間は進化の過程で他の動物より生物学的に大きな進化を遂げ文明を進歩させた結果、現在では、これら本能以外に他の動物にはない多くの別の欲求を持つこととなりました。そして、その中には動物的に生きると言うだけの本能とは、かけ離れたと思われる次に示すような欲求が生み出されることになりました。
所有欲、独占欲、財欲、知識欲、権力欲、破壊欲、攻撃欲、達成欲、自己顕示欲、物欲、逃避欲、名誉欲、闘争欲、獲得欲、征服欲、顕示欲、保身欲、出世欲、独占欲、支配欲、金銭欲、信仰欲等。
これらのことから考えるに“平和な縄文時代”の人々の欲求は基本的に本能に基づくものに留まっていたのに対して“争いの弥生時代”の人々の欲求は本能以外のものに広がって行ったのではなかったかと考えられます。このように人間の欲求が争いの要因に大きく影響していると考えられる事から、あらためて、ここで欲求とは何かを考えて見たいと思います。
7.3 マズローの欲求5段階説の紹介
すべての人間の欲求を分析、分類し、その内容を纏めて「マズローの欲求の5段階説」として提唱したのがアメリカの心理学者アブラハム・マズロー(1608〜1670)です。
「マズローの欲求の5段階説」の基本的考え方は「人間の欲求は5段階のピラミッドのように構成されていて低階層の欲求が満たされると、次の、より高次の階層の欲求を欲
しがるものである」というもので、ここでは言う欲求は5段階に並列的にある訳でなく段階的に積み上がっているもので低階層の欲求が満たされて始めて次の高次の欲求段階に移って行くと言う事を言っています。
単純に言えば「食足りて礼節を知る」と言う諺がありますが、一般的に人は食べることに心配がなくなることで、つぎに人に優しくしたり礼を尽くしたりする余裕が出来るようなり、欲求は、次の高い段階に到るとの考え方からマズローは人間の持つ欲求を次のような5段階に分けて考えました。
第1段階 生理的欲求
これは生きて行く上で最低必要な「食欲」「睡眠欲」「生殖欲」(食べたい、飲みたい、眠りたい、子孫を残したい)のような基本的な欲求で、これがなければ生命の危機にさらされ、生きている意味がなくなるとなる欲求と言える。
第2段階 安全欲求
しかし、生きるための生理的欲求を満たすことだけに追われていた生活に多少とも余裕が出てくると、次に危険を回避し安全に暮らしたい、そのために安全な家に住みたい、健康でありたい、不安や恐怖から逃れたいと言うような、それまで考えなかった安全に対する欲求段階に移るとしている。
第3段階 社会的欲求(帰属欲求)
ある程度の安全な生活が確保されると、その欲求は主に孤独感から他人との交わりや、集団や組織への帰属など社会との接触を求める社会的欲求に移るとされている。 助け合いや相談できる仲間の存在は安心感につながり、集団への帰属は、他の組織からの危険への対応になると考えられる事から社会的欲求は重要と考えている。また、これは「人間は1人では生きていけない」と言うことを物語る欲求とも言える。
第4段階 尊厳欲求(承認欲求)
社会との係わりが出来て集団に属し、仲間との付き合いが広がるにつれて、やがて、その中で評価されたい、認めてもらいたい、尊敬されたいという尊厳欲求に移っていくとされる。出世欲などは、この良い例かもしれない。
第5段階 自己実現欲求
第4段階までが満たされた段階では自分の能力を引き出して創造的活動をしたい、自分の夢を叶えたい、身近な目標を達成したい、自分で自分の価値を証明したい等 、自分のやりたいことで自身の中に秘めた思いを実現しようとした欲求で、達成されたかどうかについては他人の評価は必要としない個人的な欲求とされている。
最終段階 自己超越段階
これはマズローが晩年になって5段階に付け加えたものであるが、その本質は仏教で言う「悟りを開く」と言った境地を求める欲求であると言われている。他のことは一切関心を持たず、ひたすらに目標に向かって自分の世界の中で邁進あるのみで一般社会とはかけ離れた欲求かもしれない。
以上「マズローの欲求の5段階説」から、ある程度、欲求の本質と全体像が明確にされたと思われますが、この観点から「争いの要因」と「なぜ争いはなくならないか」について更に考えてみたいと思います。
8 マズローの欲求5段階説から見た縄文時代と弥生時代
縄文時代は豊富な自然の恵みのもと個人もしくは家族単位で活動しうる狩猟採集を基本とした自給自足の世界であったと見られる事から、それは必要最小限の食料と住居の確保の中の文化に留まっていたと思われます。従って、この時代の人々の欲求は本能的な枠の中で満足した生活を基本としていたものと思われ、このことから、これを「マズローの欲求の5段階説」から見てみると第1段階の生理的欲求、第2段階の安全欲求に留まっていたのではと推察されます。
しかしながら弥生時代になると稲作の広がりによる食料の生産過剰と、それに伴う格差の発生から富の蓄積と奪い合いが起り、そこには必然的に縄文時代にはない争う相手の存在が生れることとなりました。やがて争う相手は個人単位から集団単位へと広がり、それをもとに社会が形成されて行くこととなったと考えられます。
社会の形成により、人々の間には、相手の存在から始まる、それまでにない新たなる欲求が生み出されることとなり、その欲求の多くは、それまでの本能的欲求の満足にだけに留まらない相手との関係から生み出される「本能以外の欲求」に基づくものとなり欲求は次の段階に至ったと言えます。(「7.2 本能以外の欲求」参照)
これは、まさに 「マズローの欲求の5段階説」の第3段階 社会的欲求および、第4段階 尊厳欲求で説明されている社会との関わりから生まれる欲求と類似していると考えられます。
前述した「7.2 本能以外の欲求」で紹介した代表的な本能外欲求を、あらためて見てみると、そのほとんどは生理的欲求や安全欲求等の本能的なものとはかけ離れたものであり、このことから、この段階での争いの多くは、お互いの本能外欲求の満足を達成するための行動に起因するものと考えられます。そのことにより、その結果として「5.争いの存在について」で紹介した数多くの争いの言葉と表現が生まれたものと思います。
この段階での合意を求めての話し合いでは、お互いに持つ本能外欲求の満足達成を背景にして相手に自分の主張を飲ませるため行われることが多くなりなりますが、その結果が限界に達したときに争いとなり最終手段として暴力しか残らない段階に至り犯罪なり、戦争につながって行ったと思われます。
これを例えて見ると一緒に歩いて来た複数の人間が道の二本に別れた地点に至って、そこに、どちらかに、みんなで行かなければならない必然性が存在した場合には話し合いが始まることとなります。話し合いの中で意見が別れた場合、そこで一種の争いが始まる訳ですが、その要因となるのは育ち、経験の違い、立場の違い、考え方の違い、性格の違い等による「7.2項 本能以外の欲求」で述べた本能外欲求に起因するものが主ではないかと考えられます。
そして、そこで話し合いが、まとまらなければ初期の目的を果たすためには引きずってでも相手をつれて行かなければならないことになりますが、その結果は最終的に相手を物理的に扱うこととなり暴力沙汰から殺人に至ることにもつながりかねないと思えます。
ここまでで言えることは極論すれば「マズローの欲求の5段階説」から見ると縄文時代が本能に基づく欲求段階の時代であったのに対して弥生時代は社会環境の変化により次の欲求の段階である本能外欲求に移っていった時代あったと言えるのではないだろうかと思います。
9. 争いは本能外欲求から始まる。(本能外欲求と争い)
これまで「なぜ戦争はなくならないか」を考えるために争いの少なかったと言われる縄文時代と争いが始まったとされる弥生時代について見て来きましたが、結論として、これらを総括すると争いが始まったのは本能的欲求に留まっていた人々の欲求が稲作の伝来により本能外欲求に移っていったことが大きな要因ではなかったのかと思われます。
9.1 本能外欲求と争いの因果関係
人間の本能外欲求が争いの要因に大きく関わっているとの前提にたって、その因果関係を「7.2 本能外の欲求」で紹介した欲求と、それらから生み出されていると思われる「5.争いの存在について」で紹介した争いを中心として、あらためて関連付けて考えて見ると次のような図式になるのではと思われます。
これらのことから人間の本能外欲求は、多くの争いの要因になっているであろう事は間違いではないと、あらためて言えるのではないかと考えられます。その結果により「5.争いの存在について」で紹介した数々の争いが起こり、多くの争いに対する言葉や表現が生み出される結果になったと思われます。
従って争いから起こる戦争について「戦争には結果だけでなく要因がある」と、あらためて言っても間違いではないかと考えます。
9.2 身の回りの争い
争いに類することは身近にも日常茶飯事に起こりうることでもあると思われ、特に日常の生活の中で常に接しせざるを得ない身近な人を相手とする家庭内(夫婦、親子、兄弟、嫁姑等)、隣近所(隣の住人、隣組、自治会等)及び職場内(上司、同僚、部下、他部門等)等においては、些細なものから、お互いに引くに引けないものまで事の大小にかかわらず常に何らかの“もめ事”が存在していると思われ、そのようなことから、次のような事項に関わる争いの一つや二つを今までに誰もが経験したり、出会ったり、見たりしたことがあるのではないかと思われます。
中傷・悪口・噂話・日照・騒音・振動・通風・騒音・悪臭・ゴミ・ペット・土地境界・隣地の利用形態,道路(私道)の通行・プライバシー侵害・名誉毀損・いじめ・チャンネル争い・意見の衝突・嫌煙・好き嫌い・考えや感情、利害の不一致・勢力争い・派閥争い・ルール違反等。
もともと人間は社会性動物でもあり現在では多くの人は、家族を始めとして、いずれかの社会組織に属し他人との関係を維持しつつ生活をしていかなければ生きて行くことは出来ないと思われます。それは、また氏も育ちも考え方も違う十人十色の、いろいろの人の集まりであることから、そこには、争いとは言えないまでも、いろいろな“もめ事”が多発する可能性があることは否定出来ない事であると思われます。
これらの“もめ事”の多くは根源的には家庭環境、教育、経験等に起因する個人的な個性の違い、及び考えや感情、利害の不一致等から来る意見の対立から始まる訳ですが、基本的に、その多くは本能的外欲求に類するものであり「7.1 本能外欲求と争いの因果関係」に共通するものがあるのではと思えます。このことから、すべての争いは、その基本的には暴力沙汰の究極にある犯罪や戦争とは無関係でないことは物語っているのではないかと考えます。
従来、戦争に関して、その悲惨さ、むなしさだけが語られる事が多いように思えますが、それは戦争の結果であって要因ではないと言えることと、争いの究極が犯罪であり戦争であると言う観点から見ると「なぜ戦争はなぜなくならないのか」は我々の身の回りの争いの要因に共通したものがあり、その存在の認識から、この議論を始めるべきではないかと考えます。これを単純に言うならば戦争をなくすことを願うならば、まずは自分の周りの争いの要因を確認し参考にする必要があるのではないかさえ思われます。
9.3 本能外欲求の本質と矛盾
身の回りの争いも国家間の争いも多かれ少なかれ人間の本能外欲求に起因していると考えると、身の回りの争いさえ避けられない人間が、その人間によりつくられている集団である国家間の争いを避けることは出来るのだろうかと考えざるを得ないところがあります。
また、争いや犯罪が悲惨なものであり戦争は避けるべきものとは言いながら世間では争いや戦争を材題にした小説、映画、テビドラマが芸術作品として取り上げられ特に映画、テビドラマでは悲惨な殺し合いの画面が流されています。また今、若者を中心として広がっているスマホゲームでは戦いが主題になっているものも多く見かけます。そして、これを見ている人々は現実とはかけ離れた世界として評価し、争いに何の違和感を持たずに楽しんでいますが、戦争が争いから始まっていることを認識せず戦争反対を唱えているとすれば矛盾した話と言えるのではと思えます。
また現在の世界では平和の維持と言い、平和のための戦いと言う名目のもとに、そのための争いや戦争が容認され行われていること、信仰上の理由で自らの神のためと称し他宗教の人を平然と殺していること、自国の権益を守るためにと言って武力で他国を侵すとことが容認されていること、持てる国が持たざる国を、富める人が貧しい人を力で支配する事が当然に行われていることには同じような矛盾を感じざるを得ないところがあります。
一方、争いをもたらすとされる本能外欲求は人間にとって進歩を促し発展を刺激し人々の生活に便利さと快適さをもたらしています。従って現在の文明は人間の本能外欲求がもたらすものであり、これなしには、これらは実現しなかったことは紛れもない事実です。すなわち戦争の必要性から生み出された多数の技術進歩が文明を促進したと言う側面を持つことから本能外欲求が、人類にとって、あながち悪いことだけでもないと言えることとなると「なぜ戦争はなぜなくならないのか」を考える上で、これらの矛盾を、どう取り扱ったら良いかを考える必要に迫られることになります。
いずれにしても、この世から争いをなくし、犯罪をなくし、暴力をなくし、戦争をなくすと言うことは、人類にとって、これまで述べきました本能外欲求に起因する、いろいろな矛盾の中で解決していかなければならない容易ならざる大きな課題である事を我々は認識すべきではないかと考えます。
従って、このことは戦争のむなしさや悲惨さをだけを取り上げる世に言う単なる戦争反対論や平和論では片づけられない多くの解決すべき問題があることを物語っているような気がします。
10.本能外的欲求の抑制とコントロール
多くの生き物は何らかの欲求を持って生まれてきています。一般的に、それは命を守り子孫を残し、その命を次の世代に引き継いで行くために与えられた最低必要限な本能的なものが主と考えられます。
しかしながら人間は進化の過程で、この本能的な欲求に加えて、ほかに多くの本能以外
の欲求を持つようになりました。(6.2 本能以外の欲求参照) そして、この本能以外の欲求が人類に多くの争いや戦争をもたらしている要因ともなっているであろうことは、これまで見てきた通りです。
従って単純に考えれば戦争をなくすには人間から本能外欲求を取り上げれば良いことになります。しかしながら人間から本能外欲求をなくすことは、これが人間の人間たる証拠であり、これなしでは人間の尊厳は失われ、その結果、人間が人間ではなくなると言う恐れがあります。また一方、本能外欲求は、これまで多くの文明をもたらし人類の生活を豊かにしてきた要因にもなっていると考えられています。
このことにより人間から本能外欲求を取り上げられないと言う事になれば理屈的には戦
争をなくすことは出来ないと言う事になります。
11.本能外欲求と知恵
これまで延べてきたように人間は進化の過程で多くの本能外欲求を持つこととなりましたが、それと共に他の動物に勝る知恵を持つことにもなった事を忘れてはならないことです。本来、知恵は本能外欲求を達成する段階で、その目標を満足するための手段を編み出すものとして重要な役割を果たすものであり、その優劣は、その満足度の大小を決め、その成果に繋がるものとなると思われます。
それと同時に知恵は、また、本能外欲求から起因する“もめ事”を回避し争いにならないようにする手段をうみだすものともなり得るものと考えられます。このことは、もし人間に創造主(自然)がいるとすれば、その創造主は人間が人間たるものとして他の生き物と異なる本能外欲求を人間に与えましたが、それと同時に、そこから生ずるであろう”もめ事”を回避し争いのない人間社会をつくるようようと願って他の生き物とは異なる知恵を与えたのではないかとさえ思われます。
つまり、この世から争いをなくし戦争をなくすために人間には、その与えられた知恵を最大限利用することが求められているとも考えられ、これが出来るかどうかが、もう一つの人間の人間たる証拠と思われると同時に人間に与えられた最大の課題であると考えられます。
これらのことから“戦争は、なぜなくならないのか”を考える時に人類は本能外欲求を人類の持つ知恵で、どこまで抑制し、コントロールすることが出来るかが問われることとなりそうです。
人類は、先に述べたように、これまで数多くの戦争引き起こし破壊と殺し合いを繰り返してきましたが、しかし、その事により人類は滅亡もせず、文明を発展させ現在に至っています。これは人類の長い歴史の中で、人類の知恵により本能外的欲求の抑制とコントロールを行い、その克服のへの努力と挑戦がなされて来た結果とも言えるのではと考えられます。このことから、その努力と挑戦の歴史を振り返る事により次の段階としての「戦争は、どうしたら避けられるか」を考えるためのヒントが得られるのではないかと考えています。
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